『さりながら』(フィリップ・フォレスト著、澤田直訳、白水社)


c0077412_9533763.jpg『SARINAGARA』(Philippe FOREST, 2004)
本作品はナント大学の文学部教授であり、大江健三郎をはじめとする日本文学の評論家でもある著者の三作目の小説である(作品紹介文より)。
全体は三つの物語(詩人・小林一茶の物語、小説家・夏目漱石の物語、写真家・山崎庸介の物語)と、四つの都市に関する断章からなる。プロローグに続いてパリ、最初の物語、京都、次の物語…という構成になっていて、作家論・作品論的な三つの物語の区切りとして、あるいはそれらを繋ぐものとして、旅する人の視点から綴られた都市に関する断章が嵌め込まれている。すなわち、日本文化に関する評論と私的な旅行記を合わせたような作品で、一般の「小説」とはかなり趣が異なる。
なぜ一茶と漱石と山崎庸介なのか。作者は一見無関係のこれらの人物にひとつの共通点を見ている。一茶も漱石もそして作者も、愛する娘を失っているのだ。山崎庸介の場合は三人とはちょっと違うが、彼が写真に捉えた「原爆を生き延びた幼子」が、実はほどなくして死んでしまったという事実がある。
この作品で際だつのは一つ一つの文章、一つ一つの段落がまるで詩のように響いてくることである。おそらく散文詩のような雰囲気の原文なのであろう。そうした心に響く文章のおかげで、書かれている内容も深く心に染みこんでくる。たとえば、パリの章にこんなことばがある。

夢の特質は、それがいつか必ず現実となるという点にある。(中略)「既視感」とはこのことに他ならない。来るべき人生はそっくり、子どもの時に夢みられている。だからこそ出来事を前にして、何かがとても漠然と、ああ、これは知っている、と私たちに告げる。どんな新たな経験も、脳がもうずいぶん昔に夜中に自分に語って聞かせた古い物語のひとつひとつが、現実であったことを知らせる、ただそのためだけに訪れるかのようなのだ。そうでなければならない。たとえどんなに密やかにであったとしても、すでにそれをすっかり知っていたのでなければ、その日がやってきたとき、どのようにして精神はすっかり消え去ることなく、狂おしい現実の光景に耐えることができようか。つまり、大人になってからの生は、子どもの頃の夢を引き延ばしたものに過ぎず、実はすでに遠い昔に完了していて、いつも変わらぬ朝のうちでゆっくりと不安のうちに干涸らびてしまったものにすぎないのだと。

手許に置いて何度でも読み返したい作品である。シンプルな装丁もいい。(2013.5.14読了)
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by nishinayuu | 2013-07-23 09:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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