『진지한 남자』(공지영,창비)
2013年 07月 08日
作者の孔枝泳は第35回李箱文学賞(2011)を受賞した韓国現代文学を代表する作家の一人。その作品が蓮池薫訳で紹介されたり、映画化されたりして日本でもかなり知られるようになってきたようだ。本作品は『존재는 눈물을 흘린다(存在は涙を流す)』に収録された一編。編集者によると孔枝泳自身が代表作として自選した作品だという。
冒頭の文は、「彼は画家だった。私が20年前初めて彼に会ったとき、彼はその時代の反抗的若者たちの象徴だった黒く染めた軍服を着て、それに合わせた古い軍靴を履いていて、当時長髪の者を拘束していた警察の目を運良く逃れて少しずつ伸ばした長い髪をしていた」となっている(翻訳ではなく逐語訳です)。このあと「彼」は怒れる若者から悩む画家に、そしてふとしたきっかけから売れる絵を描く画家に変貌していく。彼はマスコミにも取り上げられる有名人になり、講演会、バザーなどにかり出されて絵を描く暇もなくなる。ところが思わぬことから世間の非難をあびる身になり、精神的にも肉体的にも衰弱してしまう。彼自身はいつでもどこでも、物事や人々に「まじめに」善良に向き合ってきたのだが。世間から身を隠していた彼が、先輩の忠告を入れて再び芸術家としての自分を取り戻そうとしたとき、またしても彼はいわれのない不運に見舞われ、今度は人々の前から完全に姿を消してしまう。締めくくりの文は、「そう。彼はまじめで情熱的な人間だった。ところで、彼は死んだのだろうか?」となっている。
言葉が厳選されていない、無駄な表現が多い、などの理由から、この作品がなぜ自選代表作なのか疑問だという声も聞く。しかし、それはこの作品をふつうの小説として読もうとするために出てくる疑問ではないだろうか。つまりこれは一般的な小説としてではなく、寓話的物語、もしくは現代の説話として読むべき作品なのだ。「彼」をはじめとする登場人物たちに名前がないこと、細かい人物描写や心理描写は省かれていること、様々な不条理な出来事が「彼」に降りかかること、それらのなかには解決できそうなこともあるのに「彼」がなんの対処もしないこと、同じような場面がそっくり繰り返される(三人の人物が登場してふたりは対立的意見を出し、もう一人は自分の都合のいい方に付く)こと、などは寓話や説話として読めばなんの違和感もない。代表作かどうかはともかく、いろいろ考えさせられる興味深い作品であることは確かだ。(2013.5.4読了)
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nishinayuuさんの「寓話的物語、もしくは現代の説話として読むべき作品なのだ」という感想は、私も全く同感です。