『偶然の祝福』(小川洋子著、角川書店)


c0077412_1658567.jpg読書会「かんあおい」2013年2月の課題図書。
この作品は7つの章からなっており、それぞれ独立した短編として読めるが、いくつか各章に共通する事項がある。それは例えば「死んだ弟」であり、「幼い息子」であり、「飼い犬のアポロ」であり、そしてなによりも「語り手が小説家であること」である。時間は過去から現在へと流れているわけではないが、一人の小説家の子ども時代からシングルマザーになった経緯、子育て中のエピソード、最初の小説や受賞作にまつわるあれこれなどが綴られており、全体で一つの物語となっている。
冒頭の章「失踪者たちの王国」の時点で息子は離乳期を迎えている。ただし、息子とアポロは軽く触れられるにとどまり、「生まれて初めて失踪という言葉を知ったのは、九歳のときだった」と一気に失踪者の話に入っていく。(やはりその年頃にnishinaは「世捨て人」という言葉をロフティングの『ドリトル先生』で、また「異分子」という言葉をザッパーの『愛の一家』で知りました。) 語り手は次々に自分の知っている失踪者を挙げていく。
まずは絨毯屋の娘の叔父さん――タクラマカン砂漠へ子羊の毛皮を求めに行ったきり。このタクラマカン砂漠というややこしい名前は、九歳の語り手にロマンティックな想像さえ呼び起こした。(nishinaの長女はやはり同じ年頃のときに友だちのお母さんが気仙沼の出身だと聞いて、その耳慣れない音の繋がりに衝撃を受け、友人のお母さん=気仙沼という関係式が頭に焼き付いたそうです。)
2番目は6年生のときで、隣の席だった肥満児で左利きの少年のおじいさん――歯医者に入れ歯を残したまま。3番目は中学のときで、保健の先生の婚約者――ウィーンでシュテファン聖堂の墓地に手帳を取りに行って。
4番目は19歳のときで、嘔吐袋(エチケット袋)の収集が趣味だった父方の伯母――税理士と交換したスカンジナビア航空の袋を持って。
「不思議にも彼らは私を慰めてくれる。失踪者の王国は遠いはずなのに、彼らは洞穴に舞い降りてきて、いつまでも辛抱強くそばに寄り添ってくれる。その吐息を私は頬のあたりに感じることができる」という語り手は、続く各章でも様々な喪失と別れを綴っていく。「盗作」では弟の死の衝撃とそれを乗り越えたきっかけを、「キリコさんの失敗」では消えた万年筆とキリコさんとの別れを、「エーデルワイス」ではあなたの弟ですと言って語り手につきまとっていた不細工な男が、こんなに堂々として完全な弟は他にはいない、と思うようになっていたのに春になったら消えていたことを、「涙腺水晶結石症」ではアポロの病気を治して名も告げずに立ち去った‘涙腺水晶結石症の犬を探す旅人’のような獣医のことを、「時計工場」では息子の父親である指揮者が、語り手の妊娠を知って離れていったことを、「蘇生」では‘ことばの湧き出る泉’を失って声もことばも失った苦しい時期のことを。
夢か現かはっきりしない登場人物たち――盗作の元になる話を語ってくれた女性、弟だと称するストーカー男、行きずりの獣医師、時計工場に閉じこもる語り手のもとに現れた蝶の痣を持つ果物売りの老人、そしてもしかしたら、アナスタシアというのは蘇生という意味よ、と言って語り手を見つめたアナスタシアおばあさん――はみんな、失踪者の国から舞い降りてきて、語り手に寄り添ってくれた人々なのだろう。(2013.1.23読了)
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by nishinayuu | 2013-04-06 16:58 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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