『思い出はそれだけで愛おしい』(ダーチャ・マライーニ著、中山悦子訳、中央公論新社)


c0077412_1440028.jpg『Dolce per sé』(Dacia Maraini)
原題は19世紀イタリアの詩人ジャコモ・レオパルディの詩『追憶』にある「思い出は、ただそれだけで愛おしい。なのに、/現在の思い、過去へのはかない憧れに、/姿を変えて心をしめつける……」からとられている。
物語は劇作家の女性がずっと年の離れた少女に宛てて綴る手紙、という形で展開する。最初の手紙の日付は1988年10月3日。このとき女性は50歳で、20歳も年下のヴァイオリニスト・エドアルドの恋人だった。一方の少女フラヴィアはわずか6歳。エドアルドの兄でチェリストであるアルドゥイーノの娘で、サクランボのように真っ赤な帽子、タータンチェックのスカート、リボンのついたトマト色の靴を身につけた「お祭りの女の子」だった。こうして女性は「お祭り」の日々とそこに到るまでの日々、そして「お祭り」が遠い追憶になってしまった日々を1995年4月8日まで、全部で16通の手紙に綴っていく。
フラヴィアへの愛情、エドアルドの出会い、几帳面な兄と全然そうではない弟というエドアルド兄弟の子ども時代と今、「形式主義者」の彼らの一族、全然違っていた自分の家族、死の床にある妹、友人たちなどなど、さまざまな人びととさまざまなエピソードが順不同で、時には丁寧に、時には断片的に語られる。いくつか例をあげると――
パラグライダーにはまったエドアルドとカステッルッチョ村に宿をとったとき、残酷な飼い主に放置され、広場に繋がれたまま哀しげに鳴いていたロバの話。
内気なエドアルドが演奏後のアンコールに応じるかどうか決めなくてはならないときのぎこちなさから始まって、一般に演奏家と聴衆の間でアンコールをめぐって複雑な心理ゲームが繰り広げられるという話。
エドアルドが自分のヴァイオリンへの愛着が過ぎて、かえって何度もヴァイオリンをなくした話。
申年のエドアルドは猿のような好奇心を持っている。彼女自身はねずみ年なので、ねずみに親しみを覚えるが、自分も少し中国の暦でいう「闘争的だが慎重」なねずみのようだと感じているのかもしれないという話。
エドアルドが分かれてから2年沈黙したあと、連絡してくるようになったが、それは一度でも彼と関わりを持った人は必ず彼の軌道上に衛生のように残るから、という話。

女性とフラヴィアの交流はごく短い間で終わり、フラヴィア宛の手紙も途中からは投函されることはなかった。女性が手紙を書き続けた相手は、幼いままのフラヴィアであり、かつて自分がそうであった、そして今も自分の心の中にあり続ける一人の少女なのだ。しみじみとした味わいのある作品である。(2013.1.23読了)
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by nishinayuu | 2013-04-03 14:40 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2013-04-03 20:58 x
年齢が違った人たちが友情をはぐくんでいるという状況がいいですね。
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