『マエストロ』(篠田節子著、角川書店)
2013年 02月 17日
劇的で、奇矯で、グロテスク。瑞穂は、ベートーヴェンを呪う。素人のテクニックは速さで評価されるが、プロの技量は強弱に関わる微妙なニュアンスではかられる。デリケートな音程も、すすり泣くようなピアニシモも瑞穂は弾きこなすが、「強く、もっと強く」と要求しつつ、そこにさまざまなドラマと微妙なニュアンスを要求するベートーヴェンのスフォルツァンドにはついていかれない。
瑞穂がピエトロ・ガルネリの音がおかしいと思ったとき、その楽器を世話した楽器店の柄沢もそのことに気づいて、瑞穂に一人の職人を紹介してくれた。都営住宅に住んではいるが、腕には定評があり、称号なきマイスターとさえ言われているという「保坂のじいさん」である。保坂は修理には6ヶ月かかるので、その間はこれを使ってください、と押し入れから一挺のヴァイオリンを取り出す。瑞穂の苦手なベートーヴェンには向かないが、コレルリにはぴったりの柔らかい音色の楽器だった。もし売るとしたら6000万だというその楽器は、実は保坂が楽器製作人生の締めくくりとして、瑞穂のために作ったものだった。6ヶ月後に自分の楽器を受け取った瑞穂は、借りていた楽器も買い取りたいと申し出る。まさに自分のためにある楽器だと感じたからだ。ところがヨーロッパのオールドヴァイオリンだと思いこんでいたその楽器が、実は保坂の製作したものだと知ったとたん、瑞穂はなんとも理不尽な怒りを覚え、「そんなもの、私は弾くつもりはありません」と言い残して保坂のもとを立ち去る。瑞穂と保坂との繋がりはこれですっぱり切れたはずだったのだが……。
この作品は、演奏家とスポンサー、演奏家を目指す若者と指導者、楽器制作者と販売会社の社員、などが織りなす人間模様をミステリータッチで描いたものである。が、読んでいる最中の印象からも、読み終わったあとの印象からも、ミステリーというより音楽系蘊蓄小説、あるいは蘊蓄系音楽小説と呼びたくなる作品である。(いろいろお勉強になりました。)(2012.12.16読了)