『きみは猫である』(マグダ・レーヤ著、左京久代・米川和夫訳、晶文社)


c0077412_101183.jpg原題はKot Pieciokrotnyで、「五倍になった猫」という意味だとか。訳者あとがきによると、編集部から、日本の子どもたちにワルシャワの子どもの物語が少しでも親しく身ぢかに感じられるように、よびかけのかたちをとって『きみは猫である』としてはどうだろう、という相談があったので、原文では三人称で語られている母親猫を二人称で語りなおした、という。母猫に「きみ」と語りかけるのは小学校一年生の男の子の「ぼく」。
「ぼく」が、ビルに住み着いていた「きみ」にミルクをやったりしているうちに、ママの許しが出て「きみ」はビルの6階にある「ぼく」の家に自由に出入りするようになる。「ぼく」が勉強をはじめると興味津々でのぞき込み、字がうまく書けていないとソファーの方に移動してしまったりする賢い「きみ」に、「ぼく」すっかり魅了されてしまう。そんな「きみ」がある晩、「ぼく」の家で四匹の子猫を産む。ママの友人の話によるとその日の昼、いつもは階段を使う「きみ」がエレベーターに乗り込んできて、途中の階で止まっても降りずに6階で降りたという。「あらまあ、ローマ数字を知ってたのかしら、うちのねこ?」とママがうなる。「ぼく」たちのビルの階数はローマ数字で書いてあるのだ。
「ぼく」はママから「こねこ4匹と、めんどういろいろを、ぜんぶ、引き受けてもらいますからね」といわれてわくわくしながら待っていたが、めんどうなことはなにも起こらない。ばたばたと床に落ちるこねこを拾い上げてやったり、ミルクタイムにはうまく吸い付けないこねこに手をかしてやったり、トイレのしつけのために工事場で砂をもらってきたり……と「ねこのおとうさん」は大忙しだけれどもそれが誇らしい。
やっかいなことはそのあとにやって来た。こねこたちに名前をつけることで、黒っぽいのには「クロ」、お気に入りのには「王さま」、3匹目は「メルセデス」とつけ、残る1匹は毛の色から「アカ」とつけたが、「クロ」以外はみんな赤毛なのだ。名前の問題のあとは食べ物の問題、それからこねこたちのいたずらの問題と続く。こねこたちのかわいさも大切さも変わらないが、けっきょくママと「ぼく」はこねこたちをもらってくれる人を探すことにし、張り紙広告を作る。どの字も色違いにして「ふうがわりで/おぎょうぎのいい/こねこ/泣く泣くゆずります」と書いて。
作者は1958年にデビューしたポーランド生まれの小説家。この作品の舞台はソ連崩壊よりずっと前のいわゆる共産圏時代のワルシャワである。訳者はあとがきでこうした作品の背景を、子どもに語りかける口調で優しく説いている。つまり、近隣の図書館ではこの本を大人用の書架に置いているが、本来は児童用の書架に置くべき本なのである。ねこ嫌いの私が思わずこの本に手を伸ばしたのは、この本が大人用の書架にきれいな状態で保存されていたからで、私にとっては思いがけず楽しい出会いであったが、この本が多くの本来の読者たちの手垢にまみれるほうが作者や翻訳者にとっては嬉しいことではないだろうか。(2012.1.16読了)
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by nishinayuu | 2012-03-13 10:01 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2012-03-14 22:08 x
動物の話は和みますね。こちらが思っている以上に賢いですね。
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