『ダウンタウンに時は流れて』(多田富雄著、集英社)

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1934年生まれの世界的免疫学者・多田富雄によるエッセイ集。2003年から2009年にかけて、各種の雑誌、新聞、パンフレットなどに発表された文をまとめたものである。
読書会「かんあおい」2011年11月の課題図書。


第一章には、「春楡の木陰で」「ダウンタウンに時は流れて」「チエコ・飛花落葉」の3編が収められており、いずれも著者が米国滞在中に知りあって深い関わりを持った人びととの思い出を綴ったものである。
「春楡の木陰で」に登場するのはコロラド州デンバーの老夫婦。1964年の初夏、著者は喘息研究所の研究員として初めて渡米する。そのとき下宿させてもらったのがジュリアン・ストリート2329番地のとんがり屋根の家だった。主のジョージ・トレゴは無愛想な老人だったが、その妻のメアリーは英語にイマイチ自身のない著者に英語のレッスンをしようと申し出てくれた。「夕鶴」の英訳などの作業を通して著者とメアリーの距離は縮まり、ジョージの芝刈りの手伝いをしているうちにジョージもうち解けてきた。翌年のクリスマスにはささやかなプレゼントのやりとりもするほどに親しくなっていたが、春になってメアリーが心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となった。以前から心臓が悪かったのに、医療保険未加入のため医者に行っていなかったのだ。慣れない土地で慣れない葬儀を手伝い、残されたジョージがなんとか立ち直ったのを見届けて、著者は日本に帰国する。2年後にまた渡米した著者がかつての下宿を訪れたとき、ジョージは病床にあり、著者のことは覚えていないようだったという。
「ダウンタウンに時は流れて」に登場するのはリノ・クインというバーで働く人たちと店の常連たち。好奇心にあふれた著者は、西部劇のような世界に魅せられて、このバーに足繁く通うようになる。当時流行ったペトラ・クラークの歌「ダウンタウン」にせき立てられるように。労働者たちのたまり場に舞い込んだ著者は、初めは奇異な目で見られるが、やがて店の常連として受け入れられる。研究所の仲間や、日本人社会の人たちからは顰蹙を買ったが、著者は貧しいアメリカ人とのふれあいに喜びを感じていた。でっぷりしたバー・クインのアンジーとも親しくなり、その子どもで問題児だというトミーについて相談されたりする。帰国するときには店をあげての送別会があり、ウエスタンバンドの盲目のギター弾きマイクは、著者に向かってジャンバラヤをひときわ高く歌ってくれた。しかし、その後デンバーのダウンタウンは開発が進み、1971年に訪れたときは摩天楼街に変わっていた。1975年にコロラド大に講演に招かれたとき、著者はアンジーを探し出して訪ねる。アンジーは糖尿病でほぼ失明し、トミーは刑務所に入っていた。
「チエコ・飛花落葉」に登場するのはいわゆる戦争花嫁の日本女性。著者が出会った当時チエコは40歳くらいで、中華料理店でウエイトレスとして働いていた。初めて入ったこの店で食事を終えた著者が、財布を忘れているのに気がついて途方に暮れていると、チエコが代金を立て替えてくれた。そのチエコの心意気に感じた著者はその後もこの店に通うようになる。チエコは女学校を出たあと横浜で米国軍人と知り合い、「愛し合って」結婚したが、酒に溺れて暴力を振るうようになった夫とは離婚して、働きながら二人の子どもを育てていた。著者はチエコに感謝すると同時に元気づけたい気持ちもあって、研究所のパーティーにチエコを招待する。ど派手な服装で現れたチエコは周囲から浮いていたが、彼女なりにパーティーを楽しんだようだった。そのころからチエコと子どもたちの間には垣根があったが、結局両者の垣根はなくなることはなく、チエコは孤独なまま心身ともにぼろぼろになって消えていった。ひとりの女の哀れな一生を思い、著者は慟哭する。
第二章は短いエッセイを集めたもので、比翼連理の妻との関係、睾丸除去の顛末、白秋の詩との出会い、「わが青春の小林秀雄」、15歳年上の叔母の思い出、「姨捨」から想起した思い、最後になった妻との二人旅、妻に捧げる詩、免疫学者ニールス・イェルネの思い出など、いずれも中身の濃いエッセイである。
米国滞在中に知りあったいわば行きずりの人びととの交流をいつまでも大切にする人情の深さに、半身不随になりながらもその苦痛をユーモアで包み込んでしまう強さに、そして衰えを知らない創作欲に、ただただ圧倒される。(2011.10.1読了)
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by nishinayuu | 2011-12-19 00:22 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
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Commented by マリーゴールド at 2011-12-20 19:09 x
私には考えられない世界です。まず、労働者階級のたまり場のバーは行って1回でしょう。戦争花嫁とは親しくなると思いますが、ホームステイは2年も続かないですね。我慢して1か月。英語もうまくならないまま出てしまうでしょう。人間的に懐の大きい人ですね。
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