『いとま申して』(北村薫著、文藝春秋)


c0077412_1094760.jpg副題に「『童話』の人びと」とある。作家・北村薫が父親の日記をもとにして著した「若き日に童話作家を目指したある男の伝記」であり、明治の末から昭和の初めまでの世相史であり童話運動史でもある。「父は、明治42年3月29日、神奈川県横浜市保土ヶ谷の眼科医の家に生まれた」という文で始まり、今は保土ヶ谷の墓所に眠る父の若き日々が、日記の引用とその解説という形で綴られていく。
日記帳の一冊目は、父が14歳で神奈川中学(現在の希望ヶ丘高校)に在学中だった大正13年、関東大震災の翌年のものだった。1月に入っても余震が続いていたが、一方で皇太子の婚儀や第5回箱根駅伝が新聞の紙面を賑わしていた。2月9日、父は横浜の有隣堂で生田春月の『夢心地』を80銭で買っている。その後も有隣堂がたびたび登場する。父は文学書を読み、作家たちの文章を学び、自分でも文章を書くのが好きな、文学少年だった。そして、コドモ社の月刊雑誌『童話』を愛読していた。川上四郎の絵に飾られ、西条八十の童謡、千葉省三の童話などが若い読者の心を捕らえていたこの雑誌は、童謡・童話・図画・綴り方の投稿を広く募っていた。当選した作品は掲載され、選外佳作も題名と作者名だけは発表された。投稿者の中にはのちの映画評論家、淀川長治や金子みすずもいた。父の初めての童話は選外佳作になり、大正14年の「童話劇号」と銘打った11月号で、はじめて作品が活字になった。弟をモデルにした『道化役者と虫歯』という作品で、選者・北村寿夫の選評があった。大正15年の初頭には『童話』の常連投稿家を中心とした「新興童話連盟」に誘われ、5月号でもまた入選を果たして読者から好意的な評を得たことで、父はいよいよ著作活動にのめり込んでいく。名門校で学び、たびたびオデオン座で新しい映画を見、時には外国人演奏家の音楽会にも行けるような父のような人から、そんな暮らしとは無縁の船木枳郎(しろう)、奈街三郎、関英雄、千代田愛三のような人びとまで、実に多くの人びとが子どものための文学の創作に情熱的に取り組んでいた時代だったのだ。
残念ながら『童話』はそれからしばらくして廃刊されてしまうが、同じ年の晩秋に父は、『新興童話』の船木枳郎に連れられて北村寿夫を訪ねる。このとき北村は『道化役者と虫歯』を大阪放送局に紹介したことを話したあと、新しい雑誌『薔薇』を作るので参加しないか、と父を誘う。父は身震いするほどの喜びを感じたが、結局この雑誌は幻に終わる。慶應大学予科の受験が迫っていた父にとっては、むしろそれでよかったのだ。父はめでたく慶應の文科に合格する。この頃の父の目標は「学問の基礎力を身につけること」と「歌舞伎を見て義太夫のよさがわかるようになること」だった。そんなある日、歌舞伎座で児童劇の脚本を募集していることを知った父は、勇んで応募するが、予選も通らずに終わる。昭和3年の暮、かつては尊敬すべき導き手と思っていた北村寿夫が「左傾化して」父の視界から去っていく。学生仲間に誘われて参加した同人誌も期待はずれの内容で、昭和4年の春には脱会を決意する。そして父はその日の日記に「僕は一生、創作家たり得ないか知れない」と記すことになる。因みに北村寿夫は、のちにNHKラジオで『新諸国物語』――「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「オテナの塔」など――をヒットさせた人物である。
冒頭に「春来る神」と題した序がある。1949年生まれの著者が小学校低学年だったというから1950年代の後半であろうか、父のところに20歳くらいの女性が尋ねてきたという。そして父の日記は戦前で終わっているが、この人の来訪が、父の長い日記の結びの一行の世に思える、と著者は言う。しかし、最後まで読んでもこの場面についてはなにも言及されていない。謎を残したまま――次の作品に期待を持たせて――終わっている。(2011.9.8読了)
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by nishinayuu | 2011-11-30 10:09 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)
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Commented by マリーゴールド at 2011-12-04 16:36 x
「笛吹童子」のメロディーがいまでも耳に残っていますが、作家が戦前の児童文学の担い手だったとは。今まで作家のことを考えたこともありませんでしたが、小川未明とか戦前の童話をずいぶん読んできましたね。また有隣堂はずいぶん昔からあるんですね。
童話にも作家にも書店にも当たり前ですが歴史があったことを再確認しました。
Commented by nishinayuu at 2011-12-05 14:36
北村薫は最近の日本の作家の中では好きな作家のひとりです。この作品はどうやらシリーズになりそうで、楽しみにしています。
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