『日本語が滅びるとき』(水村美苗著、筑摩書房)


c0077412_1142134.jpg本格小説』の著者が2008年に著した評論で、「英語の世紀の中で」という副題がついている。
作者は先ず、アメリカはアイオワで開催された「作家たちとの国際交流」プログラムに参加したときの体験から書き起こす。世界の各国から参加した小説家や詩人たちと交流しながら、世界中のあらゆるところで、さまざまな人がさまざまな条件の下で、「自分たちの言葉」で書いていることに衝撃をおぼえた作者は、英語が「普遍語」となりつつあることの意味を考えざるを得なくなったという。そして問いかける。今「自分たちの言葉」で書いている作家たちは、「自分たちのことば」が亡びるかもしれないことを、そしてそれぞれの「国民文学」が亡びるかもしれないことをどう考えているのだろうか、と。
第2章は著者がパリで行った講演をもとに、フランス語の凋落とフランス語や日本語で書くことの意義が語られる。すなわち――英語が「普遍語」として台頭する以前、世界でもっとも洗練され、かつ理性的なことばとして尊敬されていたのはフランス語で、その威光は、明治維新後の日本にまでおよんだ。萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へども/フランスはあまりに遠し」は作家たちの心を代弁し、上田敏訳の「秋の日の/ヴィオロン/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」は中産階級の読者にも広く知られるようになった。しかし、英語圏がしだいに軍事的、政治的、経済的にも優位に立つようになり、「ふらんすへ行きたしと思へば」成田からひとっ飛びで行けるようになった頃には、フランス語は文化の言葉という最後の砦も失った。かつてはヨーロッパの「普遍語」であったフランス語が、今や世界の「普遍語」となった英語に対して「それ以外の言葉」、という地位に凋落したのである。西洋と非西洋はもともと非対称的関係にあったが、今そこに新たな非対称関係が重なるようになった。それは英語の世界と非英語の世界にある非対称関係である。昔から学問は「普遍語」でなされなければ無意味であったし、これからの文学も「普遍語」である英語で書かれるものが増えるだろう。各国の言語で書かれたものより断然多くの人に読んでもらえるからだ。しかし、英語で書かないことにも一つだけ天の恵みがある。それは、「普遍語」の世界に属さない者は「言葉」に関して常に思考することを強いられる運命にあるということだ。「言葉」に関して常に思考する者のみが「真実」が一つではないこと、すなわちこの世には英語で理解できる「真実」、英語で構築された「真実」の他にも、「真実」がありうること――それを知るのを、常に強いられることである。
このあと第3章は各国語で書く作家たち、第4章は日本語という「国語」の誕生、第5章は日本近代文学の奇跡、第6章はインターネット時代の英語と「国語」、第7章は英語教育と日本語、というタイトルのもとに密度の濃い論が展開される。「日本が漢文圏に入り、文字文化に転じたのが、大陸からの地理的な近さゆえだとしたら、日本語が成熟することができたのは、その反対に、地理的な遠さゆえである」という文に始まる、「現地語」としての日本語の意義を論じた部分は説得力があり、またフランスのシンポジウムで出会った女性の「日本文学のような主要な文学」という言葉に触発された日本近代文学についての熱の籠もった感動的な論が繰り広げられている。(2011.8.28読了)
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by nishinayuu | 2011-11-12 11:48 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)
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Commented by マリーゴールド at 2011-11-14 08:51 x
英語で書かれる文学が出現する前に、英語からの外来語がまず現地語の中に氾濫してピジン語化していく過程が必要ではないでしょうか。文学自身も現地語が混じったピジン英語の趣になるのではないでしょうか。何世代もかかると思います。
Commented by nishinayuu at 2011-11-15 12:27
マリーゴールドさん、いつもコメントありがとうございます。この本は帰国なさってからでいいですから、ぜひお読み下さい。「何世代もかかる」から、とのんびりしていてはいけないことがおわかりになると思いますよ。
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