『失われた時を求めて 9』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、集英社)


c0077412_1121315.jpg「囚われの女」のⅠが収められている巻で、作者の死(1922年)の翌年に刊行され、その後何度か校訂されて現在の形になったものだという。
サブタイトルにある囚われの女とは、語り手が自分の家に住まわせているアルベルチーヌのことである。語り手はアルベルチーヌが他の男たちと、あるいは女たちと付き合うのを阻止するために彼女を手元に置いて監視し続ける。そうしておいて語り手は、彼女が自分のもとに滞在している時期を「日々輝きを失ってゆくとはいえ、やはり多彩な浜辺の女優であり続けた時期」と「灰色の囚われの女となり、色あせた彼女自身になった結果、彼女に色彩を返してやるには、私がときどき過去を閃光のように思い出す必要があった時期」という二つの時期に区分している。この巻にはまさにこの2番目の時期にある語り手とアルベルチーヌの日々が、決別の兆しをはらんだまま緩やかに流れていく様が綴られている。
「つぎつぎと天候は変わり、空模様は急転して、雷雨などがやってくるこうした日には、怠け者でもいわば自分のかわりとなって大気がくり広げた活動に興味をおぼえ、むだに一日を過ごしたとは思わないものである」といった思いを抱きながら朝のベッドでだらだらと時を過ごす語り手は、朝の町の音にも大いに興味を示す。僧院から響いてくる朝一番の鐘の音、パン屋や牛乳屋がシャッターを上げる音、そしてつぎつぎと通っていく物売りの呼び声。この物売りの声はかなりのページを割いて描写されており、例えばエスカルゴ売りの声は次のように描写されている。
「ムソルグスキーのほとんど抒情性を欠いた朗唱をしのばせるが、(中略)メーテルランクふうの悲哀ととらえどころのなさをドビュッシーが音楽化したような調子で、ちょうど『ペレアス』の作者がラモーふうになってゆく沈痛なフィナーレの一つにおけるごとく、エスカルゴ売りは歌うような憂愁をこめてつけ加える(中略)、1ダース6スーにおまけ……」
ガラス売りの「ガラァ…ス屋あ」という声は、グレゴリオ聖歌式分割と描写されている。(そういえばコクトーの映画「オルフェ」の、大きな板ガラスを持った男が道路を横切るシーンは実に印象的でした。)
ところで、あるブログが『失われた時を求めて(花咲く乙女たちのかげに)』の自転車が出てくる場面を紹介していたが、この巻でもあちこちに自転車が出てくることに気がついた。たとえば
一流ホテルのドアボーイたちが客を迎えに駅へ行くために自転車で待機している/牛乳屋の娘が「午後自転車で出かけなきゃならない」と言う/自転車に乗った者が、(トロカデロに出かけた)アルベルチーヌの手紙を持ってくる/カフェの奥の方にはそばに大きなアーチのように自転車を立てかけて三人の少女が座っている/一人の少女が膝をついて自転車を直していた。修理がすむと、その若い娘は自転車に飛び乗ったが……
という具合。前に読んだときはおそらく読み飛ばしたと思われる部分が、あるブログのおかげで印象的な場面として浮かびあがったわけだ。(2011.8.22読了)
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by nishinayuu | 2011-11-06 11:21 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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