『ピアニストは指先で考える』(青柳いづみ子著、中央公論社)


c0077412_10202923.jpgピアニストにしてエッセイスト、青柳いづみ子が2007年に発表したエッセイ。7つの章からなり、はじめのⅠ~Ⅲは専門的な内容で、あとに行くにしたがってど素人でも楽しめる内容になる。
第Ⅰ章「ピアニストの身体」はピアノを弾くための身体作りに関する話。「5本の指は長さもつきかたも異なっているのだから、均等にタッチしようとする方が無理だと考えたショパンは、チェルニーなどの練習曲がいつもハ長調――すべての指が同一平面上に置かれる――で開始することを批判した。ショパンのピアノ曲にやたらとシャープやフラットが多いのも、同じ考え方から来ている」とあって、長年の疑問が解けた。長い指を黒鍵にのせ、短い指を白鍵に落として、全部の指を自然に伸ばした状態で弾く、というのがショパンの奏法だったのだ。著者はドビュッシー研究家でもあるが、そのドビュッシーも指を自然に伸ばした奏法だったという。
第Ⅱ章「レガートとスタッカート」は内容がさらに専門的になり、指奏法と重力奏法、ジュー・ペルレ(真珠のような奏法)、ポアニエ(手首の意味)のテクニックなど、素人には「猫に小判」の話が続く。因みに「猫に小判」は本書のなかで、子どもの頃からフランスでピアノを勉強した安川加寿子がなにもベースのない日本のピアノ練習生に発したことばを評して使われている。
第Ⅲ章「楽譜に忠実?」も演奏者向けの内容が並んでいるが、その中で印象的だったのは、ドビュッシーとラヴェルについての話。ドビュッシーは19世紀末のデカダンスにどっぷりつかっていた世代、ラヴェルは20世紀初頭に活躍し始めた世代に属し、二つの文化の違いは前者は自然、人間など有機的なものに興味があり、後者は人工、機械など無機的なものに興味がむく。だから、同じ水に取材した作品でもラヴェルの『水の戯れ』は人工の水で、ドビュッシーの『水の反映』は心象風景を映し出した水、という全く異なる発想で弾かねばならない、と言う。
第Ⅳ章「教えることと教わること」でいちばん愉快だったのは絶対音感の項。「相対音感族」は主音が全部ドに聴こえるわけだから、どんな曲でもハ長調かハ短調?と「絶対音感族」の著者は不思議がる。ここでまた長年の疑問が解けた。私はたいていの曲はすぐ階名で口ずさめるのだが、4歳からピアノに親しんできた娘たちは音名で口ずさむことは出来るが階名はすっと出てこない。なんのことはない。私は「相対音感族」で娘たちは「絶対音感族」だったのだ。
第Ⅴ章「コンサートとレコーディング」、第Ⅵ章「ピアニストと旅」の章は古今東西のピアニストや指揮者のエピソードがいっぱい詰まっていてとにかく面白い。一つ二つ書き留めても意味がないので省略(!)。
第Ⅶ章「演奏の未来」には主として著者の最近の活動が記されている。「ノーミスと人間性」の項の「不安を感じる能力、人間であることの不安を感じる能力がなければいかなる種類の情熱にも入っていくことは出来ない」というクラウディオ・アウラのことばに続く、「もし演奏がコマネチの体操演技のようだったら、やはり機械的でおもしろくないと感じるだろう。多少ミスがあっても、ホルキナのように芸術的で華麗な演技のほうに惹かれる」という著者のことばに共感を覚えた。(2011.8.1読了)
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by nishinayuu | 2011-10-21 10:20 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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