『まっぷたつの子爵』(イタロ・カルヴィーノ著、河島英昭訳、晶文社)


c0077412_1354625.jpg1952年に発表された作品で、原題はIl Visconte Dimezzato。1957年の『木のぼり男爵』、1959年の『不在の騎士』とともに1960年に『我々の祖先』と題した1巻にまとめられている。
物語は「昔トルコ人との戦争があった」という文で始まる。ここに言う戦争は1716年のトルコ対オーストリア戦争のことで、血気盛んな若者だったテッラルバのメダルド子爵は、ボヘミアの平原に陣を構えるオーストリア皇帝のもとにはせ参じた。勇敢に戦って敵の砲台の下まで攻め込んだ彼を、敵の大砲が空中に吹き飛ばした。彼の身体はまっぷたつに引き裂かれ、胸部と腹部はいっさいなくなった。右眼と右耳、右頬と半分の鼻と半分の口、半分の額という頭部と、右腕と右足だけの身体で、メダルドは故郷のテッラルバに帰還した。彼を待っていた父親に挨拶もせずに自分の部屋に引きこもったメダルドは、ドアを叩き続ける乳母のセバスティアーナにも応えようとしなかった。
父親が絶望のうちに死んだ後、メダルドは城を出て野や山を歩き回った。彼の歩いた道にはまっぷたつに切り裂かれた梨やメロンが枝にぶら下がり、まっぷたつにされた蛙が飛び歩いていた。そして従僕たちが沼のほとりでメダルドを見つけたとき、半分にされた茸が沼の面を埋めていたが、たくさんの毒茸だけはその半身が見つからなかった。メダルドはそれを森の小径で出会った少年に「フライにしてみな」と言って渡したのだった。その少年というのが、メダルドの甥で当時7歳か8歳だった「ぼく」である。
テッラルバに戻ってきたのは「メダルドの悪い半分」だった。テッラルバはメダルドの悪行と暴政に苦しむ。ぼくもたびたびまっぷたつにされそうになる。しかし「おまえが半分になったら、無知で鈍い完全さから抜け出せる。完全な人間の知恵ではわからないことが、おまえにもわかるようになるだろう」というメダルドのことばがぼくの心を捉える。やがてメダルドは羊飼いの娘パメーラに恋をする。賢いパメーラがあの手この手で返事を延ばしているあいだに、メダルドの右半分がテッラルバに辿り着いて……。
というわけで、身体が半分になっても生きている、という実に荒唐無稽なお話。戒律主義者のユグノー教徒たちが住む「寒さが丘」や、快楽主義的ならい病者たちが住む「きのこ平」などが、それぞれユグノー教徒の亡命や退廃的芸術家たちの象徴として描かれており、善と悪に二分された子爵の存在とともに寓話性を高めている。その一方で子爵の甥でありながらほとんど孤児のような「ぼく」と、その唯一の友だちであるトレロニー博士には小説の登場人物としてのリアリティーがあり、寓話と言い切ることもできない不可思議な雰囲気の物語になっている。
巻頭に一枚だけ入っている原田維夫の絵(版画?)がなかなかいい。物語りの途中にもあと数枚入れて欲しかった。(2011.6.22読了)
☆右半分と左半分が決闘する場面に「真向唐竹割り」という語があります。「真っ向から竹割り」のミスプリ?と思わず辞書をひいてしまいました。なんのことはない、「真っ向、唐竹割り」でしたが、初めてであった言葉でした。剣豪小説や戦記物を読み慣れている人にはごく当たり前の言葉なのでしょうが。
[PR]
by nishinayuu | 2011-09-23 13:54 | 読書ノート | Trackback | Comments(1)
トラックバックURL : http://nishina.exblog.jp/tb/16887586
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by マリーゴールド at 2011-09-23 14:50 x
話の展開に引き込まれそうですね。荒唐無稽な話は童話や民話の世界ですね。昔懐かしいという感覚を呼び覚ますんですかね。
<< 『木曜の男』(G.K.チェスタ... 『ねじれた夏』(ウィロ・デイビ... >>