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『俳句脳』(茂木健一郎・黛まどか著、角川書店)


c0077412_10123497.jpg俳句と黛まどかに興味があって読んでみた。
第一部「俳句脳の可能性」で茂木健一郎は、研究のキーワードである「クオリア(感覚の持つ質感)」の説明から始める。続いて俳句こそは「クオリアの言語化」であると説き、感情の宇宙遊泳が日常にいながらにしてできるように、脳を「俳句脳」にすることを勧める。
「俳句脳対談」という副題のついている第二部「ひらめきと美意識」は、脳科学者のやや固い話を俳人が的確でやわらかなことばで受けながら、「はまる」メカニズムや俳句革新の歴史、日本人の美意識、俳句は第二芸術か、名句の条件、などなどについて語り合っている。特に印象的だった部分をあげると――1.西欧の巡礼道は神に向かって歩直線的に歩く道だが、その直線的な道を日本の巡礼者は、まるで熊野や四国を巡礼するようにあちこち寄り道をしながら巡り歩く、という話。2.桑原武雄の「第二芸術論」に対して虚子が「ほう、俳句も芸術になりましたか」と言った、という話。3.「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」には千代女の手で描かれた「朝顔や釣瓶とられて貰ひ水」という、あとで推敲したと思われる句がある。「朝顔や」と「切れ」を入れることによって目の前の朝顔ではない別の普遍的な朝顔がイメージされる、という話。4.「降る雪や明治は遠くなりにけり」は「明治」でなければならない。「明治」という語が動かないことが俳句では重要だ、という話などである。
第三部は言ってみれば俳句入門講座である。ここで黛まどかは季語の役割、雅語の効用を述べ、「俳句の畑を耕す」こと、「俳句の目」を持つことの大切さを説く。そして俳句には「定型」「季語」「切れ」という三つの縛りがあって、この「制約があってこそむしろ思いきり跳躍できるのです。言葉は、型があるから羽ばたくのです」という。また、「俳句の国際化」の項では、世界の国々に「HAIKU」愛好者が増えているのを喜びつつ、俳句の定義が国、個人によってまちまちなのを嘆く。これに関しては「俳句」が単なる一行詩ではないことを明らかにするために、世界共通のルールを作るべきで、季節のない国の存在や、原語による音節やリズムの違いを考慮して、「切れ」をどこかに入れるというのはどうか、と提言しているのが興味深い。(2011.6.1読了)
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by nishinayuu | 2011-09-05 10:12 | 読書ノート | Trackback | Comments(0)
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