『勝負の終わり』(サミュエル・ベケット著、安堂信也・高橋康也共訳、白水社)


c0077412_1030962.jpg舞台劇用のシナリオ。1957年4月1日、ロンドンのロイヤル・コート劇場においてフランス語で初演され、フランスでは同年4月26日、パリのステュディオ・デ・シャンゼリゼで初演されている。原題はFine de partie(フランス語)、Endgame(英語)で、チェスの「最後の詰め」という意味である。
登場人物はハム、クロヴ、ナッグ、ネルの四人だけ。灰色がかった光に浮かんだ家具のない室内には窓が二つとドア。部屋の中央にハムの乗った車いすがある。ハムは車いすに座ったままで立てないし、目も見えない。身の回りのすべてのことをクロヴに世話してもらっている。クロヴはごく小さいときからハムに育てられたらしく、ハムの世話をすることしか知らない。クロヴは脚立に乗って窓から外を眺め、ハムに報告する。窓の一つからは陸地が、もう一つからは海が見えるが、生き物は見えない(どうやら世界は滅亡したらしい)。壁際には二つのドラム缶があり、それぞれにナッグとネルが入っている。ナッグはハムの父親でネルはそのパートナーらしいが、ネルがハムの母親かどうかは不明。この二人もハムもクロヴも、それぞれがただ終わりを待っているだけなのだが、なかなかお終いの時はやって来ない。しかしある日、窓外の遠いところに子ども(未来の生殖係)の姿を見つけたクロヴはこの部屋から出て行くことを決心する。ハムは「勝負の終わり」を受け入れて、自らハンカチを顔に被せる。
これを実際の舞台で見るのは相当につらいのではないだろうか。場面は薄暗い室内、人物は四人だけで、しかも動き回るのはクロヴひとりだけ。彼らが一つの部屋に閉じこめられているいきさつも、クロヴが出て行けない理由もはっきりしない。なんの説明もなく、想像力を働かせる余地もない。それに、登場人物たちが暴君、奴隷、半死状態のいずれかなので、『ゴドーを待ちながら』に見られる滑稽味もない。訳者の解説によると衒学的な引用にあふれているということだが、思わず拍手したくなるような名台詞が出てくるわけでもない。初演のロンドンでもパリでも、『ゴドーを待ちながら』ほどには受けなかった、というのもうなずける。(2011.3.15読了)
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by nishinayuu | 2011-06-13 10:31 | 読書ノート | Trackback | Comments(2)
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Commented by Yoshi at 2011-06-13 16:47 x
こんにちは。面白い作品のご紹介ありがとうございます。

私はこの劇をロンドンで見ました。確かに、『ゴドーを待ちながら』のような面白さはないかもしれません。でも、ベケットは劇を面白くすることは大して気にしてもいないでしょう。気にしてたら、こんな劇を書くはずありませんから。でも、非常に引き込まれました。私にとっては、イアン・マッケランとパトリック・スチュアートという名優が共演した『ゴドーを待ちながら』よりも強烈な印象を残しました。暴力、終末観、孤独、というような感覚が充満した舞台でした。
http://playsandbooks.blogspot.com/2009/10/endgame-duchess-theatre-20091024.html
しかし台本で読んで楽しめる劇じゃないでしょうね。
Commented by nishinayuu at 2011-06-14 00:58
Yoshi様。この作品を観劇なさって感激なさった(おやじギャグですみません)とは、やはりレベルが違いますね。おっしゃるとおり「ベケットは劇を面白くすることはたいして気にしていない」でしょうし、私もおもしろ可笑しいものを期待して読んだわけではありません。たぶん私は「暴力、終末観、孤独」というものが非常に苦手なので、舞台を想像しただけで暗い気分になってしまったのです。それだけこの作品のインパクトが強かったということかもしれません。
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