『すべて倒れんとする者』(サミュエル・ベケット著、安堂信也・高橋康也共訳、白水社)
2011年 06月 10日
この作品はベケットがBBCから委嘱されたラジオ放送劇で、1957年1月13日に放送されたという。
ラジオ劇だけあって、全編に音があふれている。まず「田舎らしい数々の音」の中で主役のルーニー夫人が「足を引きずる音」をたてながら登場し、『死と乙女』の旋律がかすかに流れてきたところで歩みを緩めて立ち止まる、という具合。聞こえてくる音を列挙してみると以下のようになる。
乗り物関係――荷馬車の音とそれを引く騾馬の声、自転車(ベルの音)、自動車(エンジン音、ブレーキの音、アクセルを踏む音、警笛、ドアの開閉音、ギア・チェンジの音)、郵便列車の通過する音、下り列車の音、車掌の笛
音楽――シューベルトの『死と乙女』、賛美歌『常世の岩』(「主よ身許に近づかん」)
人間の立てる音――歩く音、虻を叩く音、車の乗り降りの際にもがく音、階段を上り下りする音、杖の音、鼻をかむ音、笑い声、ため息、あえぎ、叫び声、ののしり声、子どもたちの声
自然界の音――動物の声(車にひかれた鶏の声、牛の声、羊の声、犬の吠える声、鶏の声、驢馬のいななき、鳥のさえずり)、風の音、雨の音
もちろんこれらは背景の音であって、その前で人間たちのおしゃべりが盛大に繰り広げられている。
ストーリーは、ふとっちょでおしゃべりの老女・ルーニー夫人が、夫を迎えに駅まで歩いて行き、下り列車で勤めから帰ってきた夫と二人で家路をたどる、というもの。往路は足の悪いルーニー夫人が難儀しながらも、出逢う人をことごとく会話に引き込んでしゃべりまくるので、陽気で滑稽味のある雰囲気の中で進行する。一方、復路は目が見えないせいか気むずかしくて理屈っぽいルーニー氏が会話を主導し、おまけに風が出て雨まで降ってくるので、陰湿で不気味な雰囲気が漂う。翌日の説教の題目が「エホバはすべて倒れんとする者を支え、かがむ者を直(なお)く立たしめたまう」(詩篇145-14)だという話題で二人はげらげら笑うが、もちろん楽しくて笑ったわけではない。そこへジェリー少年が落とし物を届けに走ってくる。ルーニー氏が「呪われた宿命を蕾のうちに摘みとってしまう」ために殺そうと思ったことが何度もある、というそのジェリーがルーニー氏に渡したのは小さなボールだった。いぶかしがるルーニー夫人に、ルーニー氏は「いつも持ち歩いているものだ」とだけ言って、それ以上は何も説明しない。このあと、ジェリーの話からルーニー氏の乗った列車が15分も遅れたのは、子どもが列車から落ちて轢かれたからだということがわかる。
小さなボールと轢かれた子どもとは、何か関係があるのだろうか……という謎を残したまま、今や嵐のようになった風と雨の中でドラマは終わる。(2011.3.14読了)
☆画像はモンパルナスにあるベケットの墓地です。
このラジオ劇、もの凄く刺激的ですね。ご紹介ありがとうございます。ベケットは沢山作品があるので全く知らないものが多いですが、宝の山だなあと改めて思いました。読んで見たいし、機会があったら舞台で是非みたいものだと思います。実際これまでにも何回も上演されているみたいなので。Yoshi